先日、子どもの運動会へ行ってきた。年長の娘と私たち親にとっては、これが三度目の運動会になる。年小の息子にとっては初めての運動会だった。
運動会というのは、どうしてあんなに心を揺さぶるのだろう。炎天下、声援を送る大人たちを尻目に、子どもたちは走り、跳び、叫び、笑う。その純度100%のエネルギーが、乾いたグラウンドに満ちていた。
年小の息子の出番が来た。家では怪獣のように大騒ぎし、親の言うことなど聞きもしない腕白坊主が、今日は違った。きちんと整列し、笛の合図で走り出し、決められたコースを最後まで走り切ったのだ。ついこの間まで赤ん坊の延長のようだった息子が、集団の一員として行動している。その姿に、胸の奥が熱くなった。人はこうして「社会」の一員になっていくのかと。
年長の娘の大きな見せ場は、パラバルーンとマーチングだ。先生は練習中、「心をひとつに」と繰り返し伝えていたそうだ。シンプルな言葉だが、子どもたちが巨大な布を一斉に膨らませた瞬間、本当に「心がひとつになった音」が聞こえた気がした。練習では失敗ばかりで、今年の猛暑で練習時間もほとんど取れなかったと聞いている。先生もさぞ不安だっただろう。しかし本番、子どもたちの演技は見事に花開いた。ひとりの力ではどうにもならないことを、力を合わせれば乗り越えられる。子どもたちはもう、そのことを知っているのだ。
演技を見つめながら、ふと気づく。彼らにはまだ、打算や駆け引きがない。性別も、仲良しグループも、スクールカーストなんていう馬鹿げた概念もない。ただ「みんなで一緒にやること」が、そこでは当たり前なのだ。大人になるにつれて、どうしてその当たり前が難しくなってしまうのだろう。彼らが生きる世界は、今はまだこんなにもシンプルで、光に満ちている。
月並みだが、子どもの成長は本当に一瞬だ。あんなに小さかった我が子が、気づけば次のステージへと駆け上がっていく。大人になると、なぜ時間の進み方がこうも早回しになるのだろう。応援に駆けつけてくれた私の父と妻の母は、きっと私以上に、その時間の速さを感じているに違いない。子どもたちと、そして老いていく親たちと、こうして共に過ごす一瞬一瞬を、もっと大切に慈しまなければと、強く思った。
運動会の終盤、閉会式でひとりの先生がマイクを握った。娘が年小と年中だった頃の担任で、当時は新卒だった先生だ。この子たちが、彼女にとって初めての教え子のはずだ。
涙で声を震わせながら、先生はゆっくりと言葉を紡いだ。
「みんな、本当に大きくなりましたね。今日は心を合わせて、こんなに立派な姿を見せてくれました。短い練習期間で、本当によく頑張りました。先生はいつでも、みんなを応援しています。これからも、ずっと」
会場は静まり返り、拍手の音だけが澄んだ空気を震わせた。
その一言一言は、子どもたちの成長を心から喜び、未来へのエールを込めた言葉であった。私が携わる医療の仕事も、もちろん他の多くの仕事も、みんなおおかれすくなかれ社会に貢献し、人の役に立っている。それは確かだ。けれど、誰かの成長を目の前で見届け、涙をこらえきれずに拍手を送る――そんな瞬間を仕事として持てる人は、きっとそう多くない。素直に羨ましいと思った。
帰り道、娘が不思議そうに言った。「先生、泣いてたね笑」
「うん、泣いてたねー」
娘にはあの涙の意味がわからないのだろう。
初めての教え子たちが大きくなり、できなかったことができるようになる。その一つひとつを先生はずっと見守ってきた。君が何気なく大きくなっていくことが、先生そしてパパとママや多くの大人にとって、どれだけ特別で、どれだけ人の心を動かすのか。先生の涙は、きっとそのことを静かに語っていたのだと思う。
運動会の音楽も、子どもたちの歓声も、先生の涙も、すべてが今日だけのもの。二度と同じ形では訪れない、一度きりの光景だ。だからこそ、この一瞬が深く心に刻まれる。
この日のことを子どもたちは、いつか忘れてしまうのかもしれない。
けれど私たち親にとっては、忘れられない一日になった。涙をこらえながら言葉を紡いだあの先生にとっても、きっと。
拍手の音、汗と涙、一瞬のきらめき。
それらは過ぎゆく時間の中に溶けていき、大人の心には少しの切なさとして残る。
子どもたちの記憶からは、いつか消えてしまうのかもしれない。けれど、あの日の「温度」だけは心に残り、知らないうちにその子の優しさや強さを育んでいく。そんな気がしてならない。

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