娘が小学一年生になり、初めての夏休みを迎えた。
当然、宿題が出た。
ひらがなの練習。計算。朝顔の観察。絵日記。工作。
一年生にしては、なかなかの品揃えである。夏休みというより、小さな事業計画書に近い。
その中でも、ひときわ存在感を放っていたのが読書感想文だった。
無難に課題図書で書かせることにした。課題図書は『マコちゃんとことばロボ』。娘は楽しそうに読んでいた。そこまではいい。
問題は、そのあとである。
原稿用紙二枚以内。八百字以内。
「以内」と書いてあるので、制度上は二行でも構わないように見える。しかし、実際に二行で提出したら、たぶん何かが違う。先生も困るし、親も落ち着かない。本人だけは早く終わって喜ぶかもしれない。
とはいえ、小学一年生の一学期を終えたばかりである。
少し前まで、ひらがなの読み書きを習っていた子どもに、突然「本を読み、自分の経験と照らし合わせ、考えを構成し、八百字以内でまとめよ」と迫る。
要求水準が急に大学入試の小論文みたいになる。
しかも、文章の書き方はほとんど教わっていない。原稿用紙の使い方さえ、まだ十分には知らない。
これは少々、酷ではなかろうか。
読書感想文という宿題は、昔から不思議だった。
毎年のように出される。ほとんどの子どもが書く。しかし、肝心の「どう書けばいいか」は、なぜかあまり教えてもらえない。
私も子どもの頃、読書感想文が苦手だった。
小学一年生の夏休みだけは、母と一緒に書いた記憶がある。
和室の座卓だった。昼間で、クーラーはなかった。暑い部屋の中で、母と原稿用紙に向かっていた。
原稿用紙の予備はなかった。
一発勝負である。
間違えるたびに消しゴムで消したのだろう。紙は少しずつ毛羽立ち、強く消せば穴が開く。穴が開けば、感想以前の問題になる。
母が勧めてきた題材も、いわゆる本ではなかった。
毎月届く、学研の「科学と学習」のような雑誌。その中に載っていた短い読み物だった。
私はその雑誌を毎月楽しみにしていた。科学の記事が好きで、何度も読み返していた。だから、読み物として悪かったわけではない。
事故か何かで障害を負った犬の話だったと思う。介助犬だったかもしれない。正直、内容はほとんど覚えていない。
泣いた記憶もない。
ただ、「これ、本じゃないけど大丈夫なのかな」と思ったことだけは、妙に覚えている。
読書感想文なのに、雑誌の一コーナーで書いている。
子ども心に、何か規則を破っているような気がしていた。
今考えると、母にとっては、家にあるもので何とか宿題を終わらせようとしていただけなのだろう。
図書館へ行くのも、本を買うのも面倒だったのかもしれない。あるいは、そこまで深く考えていなかったのかもしれない。
読書感想文も、夏休みに処理すべきタスクの一つだったのだ。
しかも、文章を書くのが得意ではない人にとって、子どもに書き方を教えるのはかなり難しい。
自分でもよく分からないことを、さらに小さな人間に説明しなければならない。
母も、どう書かせればいいか分からなかったのだと思う。
私もよく分からない。母もよく分からない。二人でよく分からないまま、原稿用紙だけが少しずつ埋まっていった。
そして、しっくりこないまま終わった。
その後も、私は読書感想文を書くたびに、内容より原稿用紙を埋めることを考えていた。
句読点で一マス使うと、少し得をした気分になった。
会話文を入れれば改行できる。
「思いました」を何度も使う。
「とても」「すごく」で文章を少し膨らませる。
読書感想文というより、原稿用紙充填競技だった。
中学生になった頃、父が一枚の紙を渡してくれた。
インターネットのどこかから拾ってきた、読書感想文の書き方だった。
本を読んで思い出した自分の体験を書く。印象に残った場面と、日常の出来事を結びつける。それをいくつか並べ、最後に自分が気づいたことをまとめる。
今見れば、ごく当たり前の内容である。
しかし、当時の私には目から鱗だった。
読書感想文は、本の内容を最初から最後まで説明するものではなかった。
「おもしろかったです」を八百字に薄める作業でもなかった。
本をきっかけに、自分のことを書けばよかったのだ。
書き方には、ちゃんと型がある。
型を知ってから、私は文章を書くことが少し好きになった。
ルールが分かれば、文章は急に自由になる。
逆に、何も教えずに「自由に書きなさい」と言われることほど、不自由なものはない。
今、娘の読書感想文を前にして、私は少し楽しみにしている。
まだ何も書いていない。これから娘に質問しながら、一緒に考えるつもりだ。
どの場面を覚えているか。
登場人物のどこが好きだったか。
似たことが自分にもあったか。
正しい感想を言わせたいわけではない。
娘の中にあるものを、娘の言葉で少しずつ外へ出したい。
私は、子どもの文章を大人らしく整えすぎるのは違うと思っている。
一年生の文章は、一年生らしくていい。
ただし、書き方を知らないまま苦しませる必要もない。
補助輪をつけることと、親が代わりに自転車をこぐことは違う。
これから先、整った文章ならAIがいくらでも書いてくれるようになる。
だからこそ、自分が何を感じたのかを考え、それを言葉にすることは、むしろ大切になる気がしている。
文章を書くことは、うまい言い回しを並べることではない。
自分の中にある、まだ名前のついていないものを探す作業だ。
私は、書き方を知らないまま、ずいぶん長いこと原稿用紙とにらみ合っていた。
娘には、同じ遠回りをさせなくてもいい。
私が父から渡された小さなコツを、今度は私が娘に渡す。
文章をうまく書くためではない。
自分の言葉を、嫌いにならないために。

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