クソゲーを知らなかったころ

プレステで遊んでいたゴエモンのことを、ふと思い出した。

『がんばれゴエモン ~来るなら恋!綾繁一家の黒い影~』という、いまではなかなか名前の長いあの作品だ。

大人になってから知ったのだが、これ、世間的にはいわゆるクソゲーらしい。

言われてみれば、その通りだった。
雑魚敵がやたらと硬い。ほんとうに硬い。ちょっとしたボスかと思うくらい硬い。

一体倒すのに一分近くかかることもある。しかもそれが序盤から終盤までずっと続く。成長もなければ、緩和もない。容赦がない。

ステージも親切とは言いがたく、同じ場所を何度も往復させられる。
「さっきここ通ったよな」と思いながら、また同じ道を歩く。

ゲームに導かれているというより、なんとなく放り出されている感じだ。

今の基準で考えれば、なかなか大胆な設計である。


ただ、不思議なことに、当時の自分はそれを受け入れていた。

違和感がなかったわけではない。
「あれ?」とは思っていた。確実に思っていた。

雑魚敵一体にこんな時間かかるのか、とか。
なんでまたここに戻るんだ、とか。

でも、そのたびに「まあ、こんなもんか」と納得していた。
ゲームとはこういうものなのだろう、と。


兄弟でコントローラーを回しながら遊び、親はその様子を横で見ていた。

ゲームソフトは、いまのように気軽に増えるものではない。
新作が出たからといって、すぐに手に入るわけでもない。

だから一本を長く遊ぶ。
選択肢が少ないというより、「それしかないから遊ぶ」という、ある意味で贅沢な時間だった。

そして実際、それなりに楽しんでいたのだ。
違和感を抱えながらも、ちゃんと遊び続けていた。


いま改めて、その評価を知る。

敵が硬い。
お使いがひどい。
単調で、テンポが悪い。

すべて正しい。驚くほど正しい。
むしろよくここまで的確に言語化したなと感心するくらいだ。

そして同時に、もう一度やりたいかと聞かれれば、やりたくない。
そこはわりと即答できる。

なのに、なぜか少しだけ、寂しい。


あの頃の自分は、確かに「あれ?」と思いながら遊んでいた。
それでも、その違和感をいちいち否定せず、「そういうものだ」と飲み込んでいた。

評価を知らなかった。
比較対象もなかった。
攻略もレビューもない。

ただ目の前にあるものを、そのまま受け取っていた。


いまは違う。

何かを始める前に、それが「良いものかどうか」を確認する。
時間を無駄にしないため、効率よく楽しむため。

それは合理的で、たぶん正しい。
大人になったということでもある。

ただ、その代わりに失ったものもある気がする。

「なんとなく続ける」という力。
「よくわからないけど受け入れる」という余白。
そして、「評価される前の体験」。


あのゲームは、たしかに出来のいい作品ではなかった。
それはもう否定しようがない。

けれど、あれを普通に遊べていた自分もまた、確かに存在していた。

クソゲーをクソゲーと知らずに楽しめていた、あの頃の自分。

あれは未熟さだったのかもしれないし、
もしかすると、少しだけ豊かさでもあったのかもしれない。


いまの自分は、もう同じ遊び方はできない。

それが当然だとも思うし、仕方ないとも思う。
それでも、ときどきふと考える。

あの「こんなもんか」で受け入れていた感覚は、
いったいどこに置いてきてしまったのだろうか、と。

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